プロットデバイスとしての死

今日カンブリア紀ぶりのちょっと真面目な話なんですか

va-11 hall-aとデス・ストランディングと風花雪月等々やって思ったことなんですけど、様々なメディアにおける死って非常に役割が大きいですよね。

ってなんかこれ何事にも言えちゃいそうでなんかもう話おわっちゃいそうな気がする。

一大イベントみたいな書かれ方するし、結構それ引きずりがちじゃないですか。

下手したら某ニコル的な感じで一生言い続ける感あるじゃないですか。

それが悪いという話ではなく(ニコルはだるかった)。微妙な違和感がずーっと付随している。

あとあーーーこいつ死ぬなってのがなんかトレンドとしてあっちゃうのもなんだかお約束的な感があってそれもまた複雑よね。

FEの親父は毎回死ぬ。FEHの方でも親父が死んでるし親父は死ぬために生きてるのかあのシリーズは。

生きてる親父っているっけ。

なにが言いたいんだこれ。

物語を進めたいがだけのために安直に死を扱わないでほしい?

死に対して厄介オタクか?

いやでもあれよね。紅花のラストは師が死んでエデが自分のしたことの責任を取らされるて形になるとずっと思ってたけどいい意味で裏切られてエデレスになった。

後日談的なシステム的なご都合的なあれもあったかもしれないけどあれはあれで。

微妙な行動でとかエデの好感度が高いと師が亡くなるってのもそれはそれでよかったかも?エデいじめたすぎか。好きなおんなのこきゃらいじめがち。

va-11 hall-aの話するとあれはゲームと言うよりは読み物なので読み物として話すけどあれはだいぶ面白い。何ていうか微妙に腫れ物な話題うまく取り扱うなぁって感じがある。まだ途中だけどみんなもやろう。多分僕と嗜好が似通ってる人この世にいるかわからんけど僕と嗜好が似通ってたら確実に気に入る。